クリスチャン・ディオールとの出会い

VOGUEのディレクター、ミッシェル・デブリュノフは、無名少年の作品集を初めて見た時、イヴは友人のクリスチャン・ディオールと同じA-ラインの線(アルファベットのAの字のようなシルエット)を描くことに驚き、すぐディオールに紹介した。そして、独創的かつ想像力満ちた彼のデザインは、ディオールに対しても非常に強い感銘を与えることになった。

偉大なるディオールの伝統

1958年のイヴのディオールにおける最初のコレクションにトラペーズライン(ブランコ線)と呼ばれる肩から裾にかけて台形のように広がったデザインを発表した。秋のパリコレにはこのラインを採り入れたデザインの服を数点発表した。

当時、新聞は見出しに「イヴ・サンローランはフランスを救った。偉大なるディオールの伝統は続きます」と綴った。若いイヴがショーの最後にバルコニーに現れた時、群集からは今までとは類を見ないほどに歓声が上がった。イヴはディオールの為に6つのデザインを発表した。顧客は既にイヴのデザインを崇拝していた。当時、イヴの多くの作品を買う顧客の中には、イギリスのウィンザー公爵夫人の名前もあったと言う。

順調に見えたイヴだったが、1960年にアルジェリアで戦っていたフランス軍に徴兵される。ディオールの当時のオーナーであったマルセル・ブサックが右翼であったこともこの徴兵の理由の一つであった。20日後に軍隊内のいじめの影響でストレスをおいフランスの精神病院施設に収容された。そして神経衰弱のために、電気ショック療法を含む精神医学的な治療を受けた。後年、イヴは自身の薬物依存や鬱の起源はこれらの体験にあったと語っている。

独立

1962年神経衰弱の完治とともにディオールを去ったイヴは、芸術後援者で恋人のピエール・ベルジェの出資により自身のブランド「イヴ・サンローラン(YSL)」を設立し活動を開始する。

そして、2002年の引退までイヴはトップデザイナーとして40年にわたり活躍し、

現代でも「モードの帝王」と呼ばれる「イヴ・サンローラン(YSL)」の誕生である。